市橋達也の約6倍、15年もの長きにわたる逃亡生活を送った福田和子。売春宿で育った少女時代から松山ホステス殺害事件、逮捕後の人生まで、その悲惨な57年の生涯はドラマや映画にもなっています。
- どんな環境で育ったら、人はここまで追い詰められるのか
- 15年もの逃亡生活とは?
- 逮捕後はどうなった?
彼女の生い立ちから犯罪、逃亡、そして最期までを追うことで、人間の複雑さと社会の闇が浮き彫りになります。八田與一も早く捕まれ。
★ もくじ
福田和子による松山ホステス殺害事件の全容
1982年8月19日の事件発生と経緯
1982年8月19日、愛媛県松山市のマンションで元ホステスの福田和子(当時34歳)が同僚のホステス(当時31歳)を殺害する事件が発生。福田は被害者の首を絞めて殺害した後、夫とともに被害者宅から高価な家財道具をいっぱい奪って逃亡しました。
後日、夫は自首を勧めましたが福田はそれを拒否。知人の手を借りて、被害者の家財道具を松山市内の借りたアパートに運び込みます。しかし被害者が行方不明となった件で警察の捜査が始まっていることを知り、松山駅から急行列車と宇高連絡船で本州へ渡って逃亡生活を開始しました。
15年に及ぶ逃亡生活の実態
まず和子は顔見知りが誰もいない金沢市のスナックで、小野寺しのぶの名でホステスとして働き始めます。その5日後に東京で顔の整形をした後、またすぐ金沢に戻り、スナックの常連客だった和菓子屋の主人と出会って内妻となりました。指名手配中なのに。
さらに和子は愛媛にいた実の息子を呼び寄せ、甥と偽って一緒に暮らしました。和菓子店の売り上げを伸ばすなど商才を発揮する一方、家族との団欒も楽しんでいたといいいます。
しかし、なかなか籍を入れようとしない彼女を和菓子屋の主人も親戚も怪しみ、さらに福田和子の手配写真にも似ていることから親戚が警察に調査を依頼。勘づいた和子は再び逃亡します。その後、関西から中国地方、北陸と各地を転々、貸しビルのオーナーやパブの経営者、エステの指導員などと偽って逃げ続けました。そういや芸人のタケトさんが北海道美唄市で逃亡中の福田和子に遭遇したそうな。
整形手術と20以上の偽名使用
逃亡初期、まず東京の病院で目を二重で切れ長にし、鼻にシリコンを入れました。1990年頃に2度目の手術を受け、今度は鼻のシリコンを取り除きました。
これらの整形手術によって福田和子の外見は大きく変化し「7つの顔を持つ女」と呼ばれるようになりました。実際に7パターンだったわけではなく、物事や人の態度、状況などが頻繁に変わることを表現するのに使う「七変化」からきていると思われます。元々歌舞伎なんかの俳優の演技力を称えるのに使った言葉らしいですが。
そして、偽名は逃亡中に20以上使い分けていたそうで。そんなにあったら絶対間違えそうなもんですけど。
- 小野寺忍:石川県金沢市のスナックで働いていたとき
- 小野寺華世(かよ):和菓子店の若旦那と同棲したとき
- 倉本かおる:名古屋のラブホテルで清掃員として働いていたとき
- 中村ゆき子:福井で化粧品のセールスレディを装っていたとき
- れい子:逮捕直前、福井のおでん屋の常連客として
ただ、これで警察の追跡を逃れ続けたわけです。
1997年7月29日、時効21日前の劇的逮捕
時効まで1年を切った1996年、警察は国内の犯罪捜査で初めての懸賞金をかけた指名手配を行いました。この報道後、お金欲しさから警察には多くの情報が寄せられましたが、決定的な手がかりは得られませんでした。
キッカケは、テレビで全国放送された福田和子の音声。この声にピンときた、福田和子が通うおでん屋の常連だった男性客からの通報が決め手となって、1997年7月29日、公訴時効成立のわずか21日前にそのおでん屋を出たところを逮捕されました。店主の協力で、グラスから指紋もとられていました。
逮捕時、福田は63万円を持っていましたが、なぜか最後の3週間を逃げずに福井に留まっていました。前述のタケトさんの話によると、どうやら孤児の施設かなんかに懸賞金を渡したいため、店主にお願いしてワザと警察に通報してもらったという話もあります。
いずれにせよ人を殺めたにもかかわらず、たっぷりシャバを堪能した彼女は逮捕後に無期懲役となり、服役中の2005年に脳梗塞で死去しました。
福田和子の壮絶な生い立ちと犯罪への道
売春宿で育った幼少期の環境
松山市で生まれた福田和子は、両親の離婚後に母親に引き取られ、愛媛県川之江市(現在の四国中央市)に引っ越しました。この時期、母親は自宅で売春宿を経営していました。自宅が売春宿なんて、一般的な家庭生活や養育を受けるのは困難だろうと普通に想像してしまいます。
その後、母親は漁師と再婚し、一家は来島(くるしま)に引っ越したんですが、母子は島の閉鎖的な社会と排他的な雰囲気に耐えられず、今度は今治市へ。この落ち着くところのない環境(たぶん語られていない、とんでもなくヒドい状況があったと思われる)が、福田の精神的発達に大きな影響を与えたと推測されます。
18歳での強盗事件と服役経験
福田は17歳の時、同棲していた男性と一緒に、高松市の国税局長宅に強盗に入りました。この罪で松山刑務所に服役しています。
松山刑務所事件による心の傷
その強盗罪で松山刑務所に服役していた18歳のとき、衝撃的な事件に巻き込まれました。1964年(最初の東京オリンピックの年)に三代目山口組矢嶋組と郷田会岡本組の間で第1次松山抗争が勃発、そのため多くのヤクザが刑務所に入っていました。これらのヤクザたちが看守を買収し、飲酒、喫煙、賭博、女子房に侵入して強姦などやりたい放題した事件が松山刑務所事件です。
福田はこのとき、刑務所内で看守に強姦されるという信じがたい被害に遭いました。この出来事は、福田の心に深い傷を残すことになります。もちろん強盗しなきゃ服役もしてないんですけど、それとこれとは別の問題。
事件発覚後、国会でも取り上げられるほどの大問題となり、関与した看守たちも厳しく追及されました。当たり前ですが。一部の看守は追い込まれ、自殺します。
この経験は「国家権力も自分を助けてはくれない」という強い不信感を植え付けました。実際に彼女の著書「涙の谷」では、この経験が二度と刑務所に行きたくないという強い思いにつながったと語られています。二度と行きたくないなら人を殺さないのが一番なんですけど、育ってきた過酷な環境によって知能が低下していたのでしょう。
逮捕後、判決と最期
無期懲役判決
1999年5月31日、松山地方裁判所で無期懲役の判決を受けました。控訴しましたが、2000年12月13日に高松高等裁判所で棄却され、2003年11月に最高裁判所でも上告が棄却され、刑が確定。
2005年3月10日、57歳で死去
服役後は、松山刑務所から高松刑務所に移され、その後和歌山刑務所に収監されました。そして2005年2月、刑務所内の工場で作業中にくも膜下出血で倒れ、緊急入院。
しかし意識を回復することなく、2005年3月10日に和歌山市内の病院で脳梗塞により57歳で死去しました。服役期間は比較的短く、刑の確定からわずか1年4ヶ月後でした。