現在、映画などの映像作品を楽しむには配信が主流ですが、ひと昔前は店舗に行ってわざわざDVDを借りてきたものでした。
その店内の一角には大人だけが入ることを許されるスペースがあり、そこはのれんによって区切られていたのですが、そのスタイルを考え出したのが蔦屋重三郎(つたや☆じゅうざぶろう)さんだったのです。
というのはもちろんウソで、実際は浮世絵のスター絵師を育て、庶民の娯楽を作り出し、時には幕府と対立しながらも、出版界で革命を起こし江戸の文化を作り上げた男。
武将でも政治家でもない彼が、なぜ大河ドラマ「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~」の主人公に選ばれたのでしょう?実は、TSUTAYAの由来にもなった蔦屋重三郎、非常に起業家精神にあふれたものでした。
今回は、蔦屋重三郎の知られざる素顔と「彼が何をしたのか」について調べてみました。
★ もくじ
蔦屋重三郎って誰?江戸のメディア王の素顔
蔦屋重三郎は、1750年に江戸の吉原で生まれました。遊郭エリアにも人は住んでいたんですね。本名は喜多川柯理(きたがわからまる)。「つたや」の名前で知られるようになったのは、後のことです。
吉原育ちの少年が本屋になるまで
重三郎は、吉原という特殊な環境で育ちました。遊郭のある町で育った彼は、若いころから人間観察が得意だったものと思われます。24歳くらいの時に、吉原のガイドブック「吉原細見」の改め(情報収集)と卸(販売)を開始。
これが彼の出版業界デビューでした。情報を集めて、わかりやすくまとめて、みんなに届ける。ガイドブックの制作って、編集者みたいな感じでしょうか。
「つたや」のブランド戦略
30歳くらいになると、重三郎は吉原の大門口に貸本と小売りの本を販売する自分の店を構えます。この時に「蔦屋」という屋号を使い始めました。
この屋号の由来は明確ではありませんが、江戸時代の商人たちは自分の出身地や特徴、あるいは縁起の良い言葉などを屋号に選ぶことが多かったと言います。
ツタは常緑植物で、生命力や繁栄を象徴することから、重三郎が事業の永続と繁栄を願って「蔦屋」を選んだ可能性があります。また、重三郎は狂歌連での狂名を「蔦唐丸」としていたことから、「蔦」という言葉に何らかの個人的な愛着があった可能性も考えられます。
そんな江戸っ子らしい洒落た感覚で、「蔦」を自身のブランドとして確立しようとしたのかもしれません。今でいう「ブランディング」ですね。そして「つたや」という名前が、徐々に江戸の人たちの間で有名になっていきました。
蔦屋重三郎が仕掛けた7つの革命的なこと
1. 浮世絵のスター絵師を発掘
蔦屋重三郎の一番の功績は、才能ある絵師を見つけ出して、スターに育てたこと。
例えば、喜多川歌麿という美人画の絵師。歌麿の絵は今でも有名ですが、それは重三郎が彼の才能を見出して、大々的に売り出したから。
また、東洲斎写楽という謎の絵師も重三郎が世に送り出しました。写楽の絵は当時はあまり人気がなかったそうですが、重三郎は彼の才能を信じ、宣伝に力を入れました。結果、写楽の絵は100年以上たった今、世界中で高く評価されています。
2. 黄表紙という新しいエンタメを生み出す
重三郎は「黄表紙」という新しい形の本を作り出しました。黄表紙は、絵と文章が合わさった、今のマンガや絵本みたいなもの。
面白いのは、黄表紙の内容。ただの物語じゃなくて、世の中をからかったり、政治を批判したりする内容が多かったんです。「風刺マンガ」みたいなものですね。
こういう新しいエンタメを作り出したことで、重三郎は江戸の人たちの心をつかんでいきました。
3. 吉原細見のコストカット作戦
重三郎が最初に手がけた「吉原細見」というガイドブック。これを作る時、彼はある工夫をしました。
レイアウトを工夫して、ページ数を減らしたんです。ページ数が減れば、印刷にかかるお金も減ります。その結果、他の店より安く売ることができました。
競争戦略の第一人者であるハーバード大学経営大学院教授のマイケル・ポーター氏が提唱した、コストリーダーシップ戦略そのものです。
4. 文化サロンを作って情報収集
重三郎の店は、ただの本屋さんじゃありませんでした。そこは、知識人が集まる「文化サロン」のような場所だったんです。
当時流行していた「狂歌」という短い詩を作る会に重三郎も参加しており、そこで色んな文化人と交流して最新の流行や人々の興味を肌で感じ取っていたんですね。
こういう場所を作ることで、重三郎は常に新しい情報や才能ある人たちと出会うことができました。パリの歴史あるサロン「オ・ラパン・アジル (Au Lapin Agile)」が有名人の溜まり場になったのが1800年代後半なので、それより100年くらい早かった?
5. 若手作家の育成と支援
重三郎は、若い才能を育てるのが上手でした。例えば、葛飾北斎という有名な絵師。北斎が若い頃、重三郎は彼をときに叱り、ときに励ましながら導いたそうです。
また、滝沢馬琴という作家が無名だった頃、重三郎は彼を番頭として雇いました。働きながら創作活動ができる環境を与えたんですね。
インターンシップ的なことを、江戸時代ですでにやっていたわけです。
6. マルチな事業展開
重三郎は、本の出版だけでなく、色んな事業に手を出しました。浮世絵の版元、ガイドブックの制作、娯楽本の出版、文化サロンの運営。いわゆる「多角経営」ですね。
一つの分野に縛られず、いろんなことに挑戦する。手を広げすぎとも言えますが、リスクの分散とも言えます。
7. 幕府との対立も恐れない姿勢
重三郎は、幕府が禁止していた「洒落本」という本も出版していました。そのせいで、寛政の改革の時に財産の半分を没収されてしまいます。
でも、重三郎は諦めませんでした。それでも自分の信念を曲げず、ヒット作を出し続けたんです。「表現の自由」のために戦った人とも言えるかもしれません。
ちなみに洒落本(しゃれぼん)とは、江戸中期に発展した戯作の一種で、主に遊廓での遊びや遊女と客の駆け引きを描写した短編小説のこと。
蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係
「つたや」という名前から、TSUTAYAと関係があるんじゃないか?と思う人が9割じゃないでしょうか。そうに違いない。
でも実際には、TSUTAYAの創業者である増田宗昭さんが蔦屋重三郎にあやかって「TSUTAYA」という社名をつけたんです。つまり血縁関係はないけど、精神的つながりはある、と。
増田さんは本や映画、音楽などの「情報」を扱う仕事をする上で、江戸時代に同じようなことをした蔦屋重三郎に共感、この名前を付けたのだそう。
2025年大河ドラマ「べらぼう」の見どころ
2025年1月5日から放送予定の大河ドラマ「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~」。主演は横浜流星さんとのことで、空手アクションが見られるかもしれません。そんなわけないですね。
タイトルの「べらぼう」には、「たわけ者」「バカ者」という意味があります。でも、それが転じて「甚だしい」「桁外れな」という意味にも。
きっと、常識にとらわれない重三郎の生き方を表現しているんでしょう。普通じゃない、型破りな人生。そんな重三郎の人生が、どんなふうに描かれるのか楽しみです。
また、ナレーターを綾瀬はるかさんが担当することも発表されています。吉原遊郭内にあった九郎助稲荷という設定で語りをするそうです。
国際放送での英語タイトルは「UNBOUND」。「縛られない」という意味です。また「Unbound」には「未製本」という意味もあるそうで、本作りに携わった重三郎をうまく表現しています。
こういった細かいところにも、制作陣のセンスが感じられますね。