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栃木雑貨商一家殺害事件と菊池正死刑囚の軌跡|判決から脱獄、死刑執行まで

栃木雑貨商一家殺害事件と菊池正死刑囚の軌跡|判決から脱獄、死刑執行まで

1953年。25を引くと昭和28年。鶴田浩二が山口組組員に襲撃されスターリンが死に、NHKが日本で初のテレビ放送を開始した年。

そんな年に起きたのが、栃木雑貨商一家殺害事件。犯人は脱獄までしたことで、当時社会を震撼させたようです。おじいちゃんおばあちゃんに聞いてみましょう。脱獄と言ってもショーシャンクのアンディみたいに無実ではありません、普通に極悪な事件でした。日本って治安悪いですね。

栃木雑貨商一家殺害事件の概要と被害状況

事件の発生と背景

1953年3月17日、栃木県芳賀郡市羽村(はがぐんいちばむら、現在の市貝町/いちかいまち)で、雑貨商を営む小野商店の一家4人が惨殺されました。

被害者は店主の小野重夫さん(52歳)、妻の静子さん(49歳)、長女の君子さん(22歳)、そして住み込みで働いていた女性使用人(18歳)。この事件は、静かな農村地帯で起こったことから地域住民に恐怖を与えました。今なら大島てるで燃えさかっている案件です。

犯人は深夜に2階の窓から侵入。当時の家なんて今から見ると裸みたいなもんですからね。一家は熟睡中であったため、抵抗する間もなく次々と刺殺されました。女主人と使用人には殺害後に性的暴行を受けた形跡があり、現場には荒らされた痕跡が。

しかし金品が物色され、現金や貴金属類が盗まれていたことから、強盗目的での犯行と推察されました。

被害状況

被害者全員、せっかく寝てるとこに激しい暴行を受けて命を奪われており、遺体は血まみれの状態で発見されます。複数の精液反応も検出されたことから、当初は複数犯による犯行説も。DNA鑑定が実用化されたのは1980年代に入ってからです。

荒らされた室内からは、現金約2000円と腕時計などが持ち去られていました。当時の2000円は、現在の1万3000円くらい。

朝になっても店が開かないことを不審に思った近隣住民が警察に通報して、事件が発覚しました。小さい町で一家全滅という前代未聞の事態に住民たちは恐怖に包まれ「犯人は近くに潜んでいるかもしれない」という噂も広まります。

社会への影響

この事件は、その残虐性と異常性から全国的に報道され、日本中に大きな衝撃を与えました。そして、この事件をきっかけに地域社会で防犯体制の見直しや警察力強化が求められるようになりました。

菊池正の生い立ちと事件の後

菊池正の生い立ち

菊池は幼少期から母親に対して執着が強く、近隣住民から母親思いの真面目な青年と評判でした。

母親は、再婚して継父と共に生活していましたが、継父は母親を大切にせず下女のように扱っていたと言われています。このような環境の中で菊池は母親の苦しみを見て育ち、助けたいという強い思いを抱くようになりました。

そして母親が白内障を患った際、手術を受けさせたいと思いましたが、金がありません。治療費を工面するため朝暗いうちから深夜まで働き続けますが、手術代を工面することはできませんでした。この状況が彼を追い詰め、犯行に及ぶきっかけとなります。

事件後

強盗の目的で侵入したものの、実際に奪った金額はわずか2000円と腕時計1個。事件後に逃走しますが、彼の妹が被害者の腕時計を身に着けていたことが決め手となり、逮捕されることになります。何してんだ。

まあ菊池の行動は継父の態度と母親への愛情と経済的な困窮が交錯した結果であり、彼自身もまた悲劇の一部であったと言なくもないです。でも強姦は完全に余計です。

その後、菊池は死刑判決を受け、1955年に執行されました。彼の最後の言葉は「おかやん、助けてくれよ」というものであり、最後まで母親への思いが強かったようです。

死刑判決と東京拘置所脱獄劇

東京拘置所からの脱獄

1953年11月、宇都宮地裁で死刑判決が言い渡され、その後に控訴するも東京高裁で棄却されました。さらに最高裁へ上告している最中に、菊池は脱獄を試みることになります。

1955年5月12日、菊池正は東京拘置所から脱獄。彼は兄から「お前のせいで母親がいじめられている」という手紙を受け取り、それをきっかけに母親に会うため脱獄を決意します。

犯行は計画的。兄に協力を仰ぎ、本の背表紙に隠された金切りノコを差し入れてもらい、それを使って鉄格子を切断したのです。そして当日、早朝6時半の点呼で確認された後、すぐに実行。

ノコギリの音でバレなかったのでしょうか。実際、拘置所側の管理体制の不備が露呈し、この事件によって所長が更迭されてしまいました。

再逮捕と異例のスピード死刑執行

脱獄から11日後の1955年5月22日。行き先はバレバレなので、あっさり捕まり再び身柄を拘束されます。上告も最高裁で棄却され、同年6月28日に死刑が確定。当時としても異例ともいえる速さで裁判が進み、わずか5ヶ月後には死刑執行の日を迎えました。

1955年11月21日、宮城刑務所で死刑執行。享年28歳。

事件が映し出す当時の社会背景

当時の日本は戦後復興期で、地域の経済格差が顕在化していました。さらには社会保障制度もまだ整備されていません。にしても残虐な犯行には違いありませんが。

そして刑務所管理の甘さも露見した結果、全国の拘置所で鉄格子の材質変更が実施されました。更生制度や精神鑑定の重要性も、社会で議論されるようになったきっかけでもあります。

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