「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かんと欲す」で有名な玉音放送ですが、あれ昭和天皇がまだ44歳の時なんですよ。ご存知でしたか?もっとおじいちゃんが話してるイメージでした。
今で言うと、壇蜜さんとかノブコブ吉村さんとかが同じ44歳です。だからどうしたという話なんですが。
その昭和天皇が崩御された1989年に起きたのが、かの悪名高い女子高生コンクリート詰め殺人事件。このとき準主犯格として逮捕された神作譲(旧姓:小倉譲)が、3年前に51歳で孤独死していたと報じられ、再び注目を集めています。
凶悪犯罪を犯した人物の裏には、やはりそういった人物を作り上げた共犯ともいうべき人間が存在します。未成年なら、なおさらのこと。神作譲の母親はどんな人物だったのか?その行動や思考回路を覗いてみます。
★ もくじ
神作譲の母親は、母子家庭で息子を育てた
離婚と母子家庭の始まり
神作譲の家庭は、彼が小学3年生の頃に大きな変化を迎えます。両親の関係が悪化し、父親である小倉彰が家を出て別居を始めたのです。この別居により、実質的な母子家庭となりました。
離婚後の環境
父親は別居後、愛人のもとへ移り住み、その愛人との間に2人の子どもをもうけて新しい家庭を作りました。一方、母親の小倉悦子は神作譲と3歳年上の姉を引き取り、一人で子育てを担うことになります。
シングルマザーが子育てをしながら働くことは今でも厳しいですが、当時の社会ではさらに困難でした。
生活を支えるため水商売へ
この両親、なぜか正式な離婚手続きは取らず、戸籍上は夫婦のまま。そのため、母親は「小倉」姓を継続して使用しています。母親は子どもたちを養うため、夜の仕事に従事するようになりました。
これにより家庭での親の存在感が薄れ、中学生で問題行動の出始めた息子を監督できない環境が生まれることとなりました。夜の店は、酒をともなうこともありバカな客が多いので、この母親も疲れ果てていたものと思われます。
コンクリート事件後の母親の姿
息子の逮捕と遺族への対応
彼女は事件後、周囲に対して息子の行為を隠し、明るく振る舞おうとしていましたが、まあ当然のごとくバレてしまいます。そして、遺族に支払うべき賠償金を使ってマンションや高級車を購入するなど、被害者家族への配慮に欠ける行動も取っていました。
社会から批判される理由
さらに、母親は事件の現場近くで自身のスナックを経営し続けました。また、出所後の息子を自分の店で働かせたり、高級車を買い与えたりしています。
さらに、被害者遺族との連絡が取れないことを理由に補償ができていないと主張しましたが、複数の不動産を所有していたことが明らかになりました。
出所後の神作譲と母親の発言
更生への期待と現実
1999年8月4日、神作譲は28歳で満期出所します。神作譲はコンピューター関連の派遣の仕事に就き、髪を黒く染めてスーツ姿で通勤する日々を送っていました。しかし、ネットが普及し始めたのもあったせいか素性がばれてしまい、その生活は長くは続きませんでした。
ちなみに、あの2ちゃんねるが開設されたのが1999年の5月です。
そんでもって、、
投稿者:ひろゆき
投稿日:99/05/30(Sun)12:42
読者投稿欄に宣伝です。
あめぞう掲示板っぽいものをつくりました。
どうでしょう?
どうかな?
どきどき
暴力団との関わりと母親の発言
その後の神作は更生の兆しも見せず、むしろ凶暴性を増していたことが報告されています。給料未払いのトラブルをきっかけに、再び暴力団と関わるようになりました。
そして2004年6月、33歳の時に逮捕監禁致傷容疑で逮捕されます。この事件では、被害者に対して自身がコンクリ事件の加害者であることを語り、恐怖を与えていたらしい。しかも現場は母親のスナック。
母親は、メディアのインタビューで「私が止めても難しいので、本人の判断に任せようと思いました」と発言しています。
神作譲の孤独死
神作の最期
神作譲は3年前に自宅のトイレで倒れ、便器とタンクの間に頭が挟まった状態で死亡していたことが報道されました。死因は嘔吐による窒息とされています。生前は被害妄想に悩まされ、薬を服用していたとの情報もあります。
義兄の証言
義兄(姉の夫か)は彼について「あれだけのことをしたわけですから、許せる人はいないと思うんです。51年間生きていたということ自体、私には許せない」と述べています。なお昨年、この義兄は離婚しました。
社会の矯正システムへの疑問
何と言うか第三者の立場だから偉そうに言うのですが、結局のところ犯人同様にそれを作り上げた両親はもちろんのこと、矯正させられない人間を世に放つシステムも大欠陥であり、仕組みを矯正すべきだと思うんですが。