
「人を殺すために組織された集団」を監督するための、軍隊における命令組織と体制。この影響がずーっと何十年も続いているのが、教育現場におけるスポーツの世界っぽい。
龍谷大平安高校野球部の監督、原田英彦氏が部員への暴行で謹慎処分となりました。甲子園春夏19回出場、通算31勝という実績を持つ名将の突然の失脚。そんな原田監督の経歴や成績、そして今回の事件について調べてみました。
★ もくじ
原田英彦監督のプロフィール
平安高校への憧れから始まった野球人生
原田英彦監督は1960年5月19日、京都府京都市南区の生まれ。小学生の頃から、名門である平安高校(現・龍谷大平安高校)の野球部に強い憧れを抱いていたそうです。その後大きくなって夢を実現し、同校に入学。高校時代は俊足のセンターとして活躍します。
しかし3年生の夏の京都予選で京都商業に敗れ、甲子園出場の夢は叶いませんでした。
社会人野球での活躍と監督就任
高校卒業後は、京都に本社を置く製薬会社「日本新薬」に入社。その野球部で主将を務め、13年間で10度も都市対抗野球に出場しました。そして1993年、母校である平安高校(当時)の監督に就任。これが、高校野球界に大きな影響を与える転機となります。
会社では暴れていなかったようです。
甲子園での輝かしい成績
春夏合わせて19回の甲子園出場
原田監督のもと、龍谷大平安高校は甲子園常連校として名を馳せます。春の選抜大会に11回、夏の全国大会に8回、合計19回もの甲子園出場を果たしました。
通算31勝の快挙
甲子園での成績も圧巻。春は19勝10敗、夏は12勝8敗。合わせて31勝18敗、勝率.633という驚異的な数字を残しています。これは同校の歴代監督の中で最多の勝利数です。おそらく世間は存分にチヤホヤしたことでしょう。
2014年春の選抜大会で悲願の初優勝
長年の悲願だった優勝は、2014年春の第86回選抜高等学校野球大会で達成。決勝で大阪の履正社を6対2で下し、学校初の春の甲子園制覇を果たしました。この時のエースは、現在ヤクルトスワローズで活躍する高橋奎二投手。
指導方針と選手育成
「情熱」を重視した指導法
原田監督の指導法は、「情熱」がキーワード。著書『「情熱」の教え方』では、選手一人ひとりと向き合い、愛情を持って指導することの大切さを説いています。暴行は、情熱よりも「冷徹」に近い感じもするのですが、どうなんでしょう。
技術と人間性の両立
原田監督は、技術力と人間力の向上を重視していました。守備力向上のために股関節を鍛えるトレーニングを取り入れるなど、独自の指導法で選手を育てています。
有名選手の輩出
原田監督の下で育った選手の中には、プロ野球選手として活躍している者も多くいます。オリックス・バファローズの川口知哉選手や、前述のヤクルト・スワローズの高橋奎二投手などがその代表例。
部員暴行事件と謹慎処分
事件の概要
2025年2月25日、原田監督が部員に対する暴行を理由に謹慕処分となったことが明らかになりました。学校側によると、原田監督本人が暴行の事実を認めたという。
調査委員会の設置と今後の展開
龍谷大平安高校は調査委員会を設置し、事件の詳細について調査を進めています。日本高等学校野球連盟にも既に報告がなされており、3月上旬には日本学生野球協会の審査室会議で処分が決定される見込み。
野球界への影響
この事件は高校野球界に衝撃を与えていますが、世間的には「またか」という感じもなくもない。名将として知られる原田監督の失脚が、指導者の在り方や高校野球、というか、あらゆる業界におけるパワハラ問題に再び注目を集めることになりそうです。
他校にも「やばい、俺もバレたらどうしよう…」なんて怯えている監督もいるかもしれませんね。
原田監督の功績
龍谷大平安高校野球部の復活
原田監督が就任した1993年当時、龍谷大平安高校の野球部は低迷期にありました。しかし原田監督の熱心な指導により、再び甲子園常連校へと返り咲いたのです。今回の事件がなければ、大きく評価されるべき功績でした。
指導者としての姿勢
積極的なプレーから生じた失敗に対しては寛容な態度を取り、むしろ選手たちの自主的な成長を促しました。一方で、消極的な姿勢や小手先の技術で乗り切ろうとする態度には厳しく接し、正々堂々とした勝負を重視。
選手たちとの密接な関係性を築き、彼らの人間的成長を促す指導を行なってきたことが、龍谷大平安を再び甲子園常連校へと導いた要因の一つとなっていたことに間違いは無いと思うのですが。