
2019年に亡くなった内田裕也さん。一般にはどこかキワモノ扱いされるキャラのようでしたが、そのぶん俳優としての存在感は随一でした。特に80年代の三部作『水のないプール』『十階のモスキート』『コミック雑誌なんかいらない!』は作品としても傑作。
そのひとつ『コミック雑誌なんかいらない!』のラストシーンは、豊田商事の永野会長刺殺事件を再現しており、犯人役のビートたけしさんもハマりすぎてて怖かった。
1985年6月18日、大阪市北区で起きた豊田商事会長刺殺事件。テレビの生中継でも放映された衝撃的な事件です。2000億円もの巨額詐欺事件の黒幕とされた永野一男会長は、なぜ刺殺されたのか。
犯人の飯田篤郎と矢野正計の素性や事件について探ってみました。
★ もくじ
豊田商事とは?2000億円の被害を出した悪徳商法の実態
トヨタの名前を騙った会社の正体
豊田商事の社名の由来は、その創業者である永野一男が中学卒業後に最初に就職した先が、トヨタ自動車系の電装部品メーカーである日本電装(現:デンソー)だったことに起因しています。
永野はトヨタの名前を利用すれば高い信用を得られると考え、この名前を採用しました。
もちろん実際には、豊田商事はトヨタグループの商社部門「豊田通商」とは無関係でしたが、この事件により、豊田通商をはじめとするトヨタグループ企業や、豊田市にある類似の名称を持つ企業が大きな風評被害を受けることとなりました。
詐欺師ってホント、マジメにやっててもちゃんと成功してたんじゃないかってくらいに頭が回る気がする。
金の延べ棒で老人を騙す悪質な手口
この事件の中心となった手口は、金(ゴールドね)の地金を用いた現物まがい商法。営業担当者は、まず電話で高齢者を中心に勧誘を行い、興味を示した相手の家を訪問します。
そして巧妙な心理戦術で、仏壇に線香をあげたり身の回りの世話をしたりして、相手の信頼を獲得。さらに「息子だと思ってくれ」なんつって人情に訴え、相手の心に入り込んでいくのです。
映画では太ったおばさんのセールスウーマン(橘雪子さん)が、顧客の老人役・殿山泰司さんにおっぱい触らせてたけど、これも実際にあったエピソードっぽい。
契約の際、地金を購入する契約を結ばせますが、現物を引き渡すことはありません。代わりに「純金ファミリー契約証券」という証券を代金と引き換えに渡す形式を取ります。
これにより顧客は実際に購入したのかを確認することはできず、結果として証券という名目の紙切れだけが手元に残る、いわゆる現物まがい商法(ペーパー商法)となっていました。
豊田商事の営業拠点には、金の延べ棒が目立つように積まれていましたが、後の捜査によってこれらはニセモノであることが明らかになっています。ただ、これを見せることで顧客に安心感を与え、契約を迫る手法が用いられていたわけです。
独居老人を狙った卑劣な勧誘方法
この事件は、特に金融商品に詳しくない高齢者を狙った点が特徴的でした。もちろん当時はネットもまだ無い時代で、詐欺事件に対する知識や認識が薄かったことも、被害が拡大した要因の一つとなりました。いつの時代も高齢者は狙われやすい。
この手口により、被害者は数万人、被害総額は約2,000億円以上にも達したとされています。豊田商事は、テレビCMを多数放映し、有名企業とのつながりや芸能人のイベント起用などで大々的にアピールすることで、さらに信用を得ようとしました。
永野一男会長はどんな人物だったのか
永野一男の家庭環境と生い立ち
彼は1952年、岐阜県恵那市の農家に生まれました。父親は障害者で働くことができず、祖父が農業で家族を養っていました。しかし祖父が亡くなると家計は急激に悪化し、一家は母親の実家がある島根県に移住せざるを得なくなります。
島根県に移った後も家庭の経済状況は改善せず、近所から借金をするほど困窮していました。さらに不幸なことに、永野が15歳の時に母親が新興宗教に傾倒し、失踪。これにより、彼は島根県浜田市国分町にある叔父の家に引き取られることになりました。
職歴
中学卒業後、永野は集団就職で日本電装(現・デンソー)に入社しますが、2年で退職。その後は職を転々とし、不動産業や、証券会社の商品先物取引業者「岡地」に勤務しました。
ここでは営業として優秀な成績を収めていましたが、顧客の資金を無断で小豆市場に投資。損失を出して解雇されました。この経験が、後の詐欺手法につながったと考えられています。
豊田商事の設立
永野一男は、1977年頃から愛知県名古屋市で地金の商品取引を始めます。会社は1978年7月8日に正式に法人化され、本店を東京銀座に置いて、貴金属の販売や有価証券の保有利用等を営業目的とする「豊田商事」が設立されました。
設立当初は名目上の代表者を道添憲男とし、資本金は5,000万円。しかし、実態は金ブラック業者であり、ノミ行為による導入金を利用して組織を拡大し、大阪や福岡に支店を、岐阜や三重に営業所を、と次々と新設していきました。
翌1981年3月に「純金等ファミリー契約」の販売を開始し、同年4月22日には新たに「大阪豊田商事株式会社」を大阪市北区梅田に設立。資本金は1,000万円で、代表取締役社長には永野が就任しています。
しかし1985年になると豊田商事の商法が社会問題化し始め、国民生活センターなどにより豊田商事関連の110番が設置されるなど、問題が表面化。
最終的に1985年7月1日、豊田商事は破産宣告を受けました。この間に豊田商事は、高齢者を中心に全国で数万人もの被害者を出し、被害総額は2000億円近くに上ったとされています。
生活スタイル
永野一男会長の私生活は、派手さと秘密主義が特徴的でした。
高級車ランボルギーニ・カウンタックや自家用クルーザーまで保有していた一方で「顔を知られると殺される」という恐怖心から、マスコミを極端に嫌い、自社の社員や役員にさえ顔をほとんど見せないという徹底ぶり。恨まれているという自覚ありまくりです。
個人生活
1976年には大垣競輪場でスリを働き逮捕されるなど、犯罪歴もありました。また「女房に累が及ぶ」との理由から結婚せず、生涯を未婚で通しました。そして1985年、32歳で命を落とします。ちなみに殺害された時の所持金は、711円だったという話。
豊田商事会長刺殺事件の真相

犯人と犯行の動機
永野一男会長は、自宅マンションで刺殺されました。犯人は、飯田篤郎(当時56歳)と矢野正計(当時30歳)の2名。1985年6月18日、この2人は大阪市北区天神橋にある豊田商事会長永野一男の自宅マンションに侵入、報道陣の前で永野会長を殺害しました。
飯田は鉄工所を経営しており、矢野は飯田に世話になっていたという男。事件後、2人は現行犯逮捕され、翌年の裁判で飯田に懲役10年、矢野に懲役8年の実刑判決が下されます。
現在、両犯人はすでに刑期を終えており、飯田篤郎は86歳(2025年時点)で、近畿地方のある都市で妻と共に7万円のアパートで暮らしているとされています。
一方、矢野正計は60歳(2025年時点)で、釈放後しばらく大阪市内で生活し、雀荘を経営していたが、2010年頃に広島方面に引っ越したとのこと。
犯人たちは、元部下の被害者6人から「もう金はええ、永野をぶっ殺してくれと依頼された」と、マスコミの取材陣に対し語っています。その後、彼らはマンションの窓ガラスを割って永野の部屋に侵入し、旧軍の制式銃剣を使って永野の頭部など全身13か所を刺しました。
テレビ局が生中継した衝撃の瞬間
この事件が特に注目を集めたのは、犯行の一部始終がテレビで生中継されたこと。その日、永野会長の逮捕が予定されていたことで多くの報道陣が自宅マンション前に集まっていました。
そこへ突然現れた2人の男たち。最初は「永野に会わせてください」と言っていた2人でしたが、突如として窓ガラスを割り部屋に侵入。永野会長を刺す様子が、そのままカメラに収められてしまいました。
犯行後の奇妙な行動
犯行後の2人の行動もまた異様でした。部屋から出てきた2人は、「おい警察呼べ、早う。俺が犯人や」と報道陣に向かって叫びました。さらに記者たちの質問にも答え、エレベーターに乗る際にはタバコまで要求したのです。いつでもどこでもタバコが吸えた時代です。
自分たちの行動を正当化するかのような態度でカメラの前に立ち続けた2人の姿は、事件そのものと同様、世間に衝撃を与えました。
事件の背景にある闇
反社会的勢力との関係性
この事件の背景には、反社会的勢力との関係性について様々な憶測が存在します。
事件後の捜査で、豊田商事が集めた金のほとんどが流用され残っていなかったことが判明しましたが、トップである永野一男会長の死亡により、その金の流れの解明が困難になりました。
この状況が捜査に支障をきたしたため、関係者が口封じのために殺人を依頼したのではないかという推測が広まりました。まあしかし、これらの噂や憶測の確証はありませんけど。
未解明の部分が残る事件の全容
豊田商事会長刺殺事件は、表面上は解決したように見えます。しかし、事件の全容に関しては他にも疑問点が存在しています。
先述の反社会的勢力との関係性以外にも、事件の発生を事前に知っていた可能性のある人物の存在や、報道陣が事前に現場に集まっていたこと、さらに一部の関係者が暗殺計画を知っていたのではないかという推測も。
事件から長い年月が経過した現在では、その真相に迫ることは困難を極めています。